Short Story…




Short Story No 215
認知症


「おなかがすいたよ」
老婆が女に訴える。

壁にかけられている時計は午後7時過ぎを指していた。

「さっき食べたじゃないですか」
女は食器を洗いながら答える。

「でも、おなかがすいたんだよ」
老婆は首をかしげる。

女はため息をつき、食器洗いを続ける。

「どうして私だけご飯を食べちゃいけないのさ?」
「だから、さっき食べたじゃないですか」

口論が飛び交い、老婆が折れた。

「もういいよ。わかりました。
食べなきゃいいんでしょ、食べなきゃ。
どうせあんたは、私に早く死んでほしいんだろ。
鬼のような女だね、あんたは」

またかと女はうんざりしながら、
老婆の自分に対する文句を聞き流す。

椅子から立ち上がり、
腰をさすりながらリビングから自分の部屋に戻ろうとする老婆に、
女は血圧の薬を飲むように促す。

「こんな薬なんていらないよ。本当に薬かも怪しいっていうのに。
大体、前はこんな色の薬じゃなかったじゃないか」
老婆は声を荒げる。

「飲んでくださいよ、先生も仰ったじゃないですか。
高血圧はさまざまな合併症を引き起こすって」
なだめるように女は老婆を諭す。

口論が繰り返され、また老婆が折れる。

「わかったよ、なんにも食べられない。
飲めるのは薬だけだからね」
嫌味を言いながら老婆は、薬をしぶしぶと口に含み白湯で流し込んだ。
そして自分の部屋へと戻っていく。

食器を洗う手をとめ、女はまた静かにため息をつく。
洗剤のついた食器をお湯洗い流し、
横にある食器乾燥機へ一枚一枚丁寧に食器を立てかける。

全ての食器を入れ終え、蓋を閉じる。
ただ、そこに老婆の食器はない。
使ってないのだから、あるはずがない。




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